こんにちは!大学生の娘と息子の母、ヨーコです。息子には幼い頃から様々なアレルギーがあり、なかでも乳製品は、アナフィラキシーショックによる呼吸困難、意識消失の経験があります。
今回は、経口免疫(減感作)療法や、自宅負荷にまつわる”主にメンタル面(母目線)について”の体験をご紹介したいと思います。
治療法の過渡期に生まれた息子
息子の重度の食物アレルギーが発覚したのは2005年。生後7ヶ月の時でした。当時の治療は、アレルゲンは完全除去。母乳からの摂取も防ぐため息子のアレルゲンを”私も”除去していました(乳、卵、小麦、ピーナッツ)。私が対象原材料を除去するようになる前は、息子に母乳を与えると、顔が赤く腫れ上がった経験があったので、母乳の為の除去もすんなり受け入れていました。
※19年前の話です。現在と治療は異なる可能性があります。
2008年頃から、大学病院など一部の病院で経口免疫療法が始まっていたようですが、当時息子が通院していた病院での治療法は完全除去のみでした。
※経口免疫療法とは…経口負荷試験で誘発量を確認し、医師の治療の元、決められた量を食べ(自宅負荷)、耐性を得る治療法。(以下、経口免疫療法を免疫療法と記載します。)
怖くて手を出せなかった「免疫療法」。挑もうと決意したきっかけは”小学校での給食トラブル“
完全除去の生活のまま、小学校へ進学。除去食を持参し、周りの方々に助けていただき、大きなトラブルもありませんでした。
…が、しかし。息子が小5の時、校長・教頭が変わり、状況が一変しました。
『今後は今までのような理解のある環境ではないのだ…』と危機感を覚え、アレルギーを少しでも改善しなくては…と考えが変わりました。
息子に説明し、息子自身が免疫療法を「やる!」と言いましたが、明らかに私の勢いに押された形だったと、今は思います。
免疫療法開始!しかしすぐに壁にぶつかる
免疫療法は、一番重度の「乳製品」から始めることにしました。経口負荷試験を経て、あるメーカーの食パンを¼食べていくことになりました。
息子も最初は、乳を含むパンやお菓子を真面目に食べていましたが、増量するに従い症状が出始め、次第に食べることを渋るようになりました。息子自身は、完全除去に不自由を感じておらず、『絶対治す!』という意思もありませんでした。また、小学校高学年から中学校という多感な時期。親がコントロールするには難しい年頃でもありました。
それでも、息子は病院受診日には通院してくれるので
《いつか、やる気になってくれるかも》
という一縷(いちる)の望みにかけていました。
SNSで大人になってからも治っている方がいることを知る
息子が中学校に進学すると、部活や行動範囲も広がり、治療は遅々として進まなくなりました。私もいつしか諦めの気持ちが芽生えるようになっていました。
そんな時、SNSで、息子より少し年上の方が続々と食べられるようになっていることを知り、『中学で治療をやめる』と言っていた息子に情報を伝え、話し合い、結果的には高校卒業まで治療を続けることとなりました。
最後に病院で飲んだ牛乳の量は16cc。命の危険は無くなったと思っています。本来はこれで充分なはずでした。
けれど、私の心は晴れなかったのです。
息子がニコニコしながら言った言葉
治療をやめた後、それでも諦めきれなかった私は、アレルギーのコミュニティで仕入れた情報を、ときどき、息子に伝えていました。そんなある日、息子は笑いながら高らかに宣言しました。
「アレルギーのことは置いておいてさ。食べて苦しくなる物は、もはや『毒』じゃない?それを口にする人って普通いないよね?だから俺は牛乳は飲みませんっ!!」
正論です。
本人にしか真の辛さは分からない。はたと気付かされた瞬間でした。
アレルギーがあってもなくても変わらないであろう息子
息子は幼い頃からずっと楽しそうで幸せそうでした。アレルギーのことも含めて悩んでいる姿は思い出せません。
『私は一体何にしがみついていたのだろう…。』我に返りました。
食べられるようになることが必ずしもゴールではない
いかがでしたでしょうか。
大学生になった息子は、乳製品とピーナッツを除去していますが、新しい友達とも旅行や食事に行っています。変わらず楽しそうです。(理解ある友達のおかげです。)
私の未熟さをさらけだし、お恥ずかしいですが、この体験談がお役に立てることがあれば、嬉しく思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
大学生(娘)、高校生(息子)の母。
息子が生後7ヶ月、乳製品でアナフィラキシーショックを
起こしたことをきっかけに食物アレルギーの世界に足を踏み入れる。
お笑い大好き!
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そんな生き方目指しています。
旅行会社8年、給食調理員6年の勤務経験あり。