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Experiences / 体験談,  ピックアップ

食物アレルギーのはじまり

生命の誕生

1985年8月6日 19時57分。
東京都内にて3090gの元気な女の子が産まれました。

その子の名前は「真奈」。この記事を書いている本人です。

「真奈」とは“神様からのさずかりもの”という意味でつけられた名前なのだそう。その名の通り、みんなから愛され、元気にすくすくと育った私に悲劇が襲い始めたのは3ヶ月検診の時でした。

ここからの話は(当たり前のことですが、)私は当時の記憶がなく、家族から聞いた話になります。

重度の皮膚湿疹から食物アレルギーと診断されるまで

1985年11月7日。3ヶ月検診を受けに病院へ。

写真を見る限りではアトピーのような様子は感じられませんが、ひじ裏・ひざ裏に湿疹のようなものができていた私を見て、医師から「アトピー性皮膚炎」と診断結果を下されました。

当時の母子手帳には「病院にてアトピー性皮膚炎の軟膏」と記されていました。きっとそれがステロイドの始まりだと思われます。

それから、1ヶ月後の4ヶ月検診
体重増加不良のため、それまでの母乳+粉ミルクを追加することに。


12月9日には粉ミルクを1日2回。そして同じ月の24日には3回に…。

ところが、翌年の1月には母乳をほとんど飲まなくなり、粉ミルクが1日5回になったそうです。

そして、翌月の1986年2月11日から1週間、お腹をくだし下痢が続いたとのこと。
原因は、「前日に初めて食べた魚」と診断。その時にはアトピー性皮膚炎もひどくなり、顔中真っ赤。耳たぶもジクジクになったとのこと。
赤くブツブツしたところに軟膏とガーゼを貼られるが、かゆみというよりも邪魔なのか、まだ赤ちゃんだった私は手で取ってしまうため、なかなか治らなかったそうです。

そんな様子をみて心配してくださった近所の方が、”良い先生がいる”と、当時、厚生中央病院(東京都目黒区)に勤務していた千葉友幸先生を紹介してくださり、母と私はその先生を訪ねることに。(現在は開業され、千葉クリニック(東京都江戸川区)にて勤務されています。)

血液検査の結果が出た時、千葉先生に言われた一言を母は未だに覚えていると言います。
「お母さん。この子は一生、卵1つ食べられないかも知れません。」と。

まさにこの瞬間から“食物アレルギーと向き合うこと”がはじまったのでした。

その時、どのように食物アレルギーと向き合っていくかについては、いくつかの選択肢があったのだそう。具体的には、「体質改善の注射で治す方法」や「食事療法(除去食)」など、他にもいくつかあったと言います。

母はとにかく悩んで、たくさん、たくさん、考えたそうです。

体質改善の注射は聞いているだけでもゾッとするほど怖いし、女の子なのにこんなひどい見た目の状態はかわいそうだと。


悩み抜いた母が決めた選択は「食事療法」でした。

母なりの食物アレルギーとの向き合い方

私はこの記事を書くにあたって、母に「なぜ食事療法を選択する決心をしたのか」聞いてみましたが、母からの回答はこちらでした。

「食べられないものが多くてちゃんと成長するのか心配だったけど、昔の人のことを考えてみたの。
時代劇に出てくるお百姓さんは、お米を全てお殿様に献上していたからお米すら食べていなかったでしょ?
それでも働いたり、生活できていけていたのだから大丈夫だと思って、「食事療法」にすることに決めたのよ。
20歳になったら本人に決めさせようと、そう思っていたの。」

そのことを初めて聞いた私は、思わず涙が出ました。

若かりし頃の母と、母になった自分を重ねて

もし私が母と同じ立場だったとしたら、その決断をできたのだろうか…。


今でこそ、食物アレルギーと診断される幼児は増えていて、対応食や対応してくれる飲食店・学校も増えてきていますが、当時「食物アレルギー」と言ったら、まだ医療業界的にも全く未知の領域。
そんな時代に、しかも若干20歳の新米ママとして、私のアレルギーに立ち向かった母を偉大に思えないわけがなく、また、限られた時間と情報の中で「食事療法」を選ぶと決断をした母を、私は心底、尊敬しています。

アレルギーっ子当事者の皆さんも、お母さまに「自分が生まれた当時のこと」を聞いてみてはいかがでしょうか。きっと、子ども目線ではわからなかった母の一面や思いに気づくことができるかもしれませんよ。